人見知り…ではなかった私

まわりみち履歴書

 今でこそ初対面の人ともそれなりに喋れるようになったが、元来自分は人とのコミュニケーションがあまり上手な方ではない。

 現代心理学の知見では、人の性格は、生まれ持ったものと後天的なもの、すなわち、遺伝と環境の両方の影響を受け、それらに加えて相互作用や個人差なども存在している、というのが確からしいと言われている。このあたりのことは、行動遺伝学やパーソナリティ心理学などの論文や専門書にあたれば結構面白いことが書いてあるが、中にはとてもテレビでは言えないようなことにさらりと言及されている。端的に言えば、世界には我々の知らない不都合な真実がたくさんある、という感じであろうか。

 話を戻そう。私の内向的な性格やら、人見知りする傾向も、元々持って生まれた気質的な部分と、幼少期の経験や人との関わりによって形成された部分とが不可分に混ざり合って形成されたものなのだろうと思う。自分のことを思い返してみると、人と仲良くなるのに時間が掛かった。何より、自分から話し掛けるのにものすごいエネルギーを必要とした。

 幼稚園のときは、元気な子に引っ張ってもらっていたことがほとんどであったし、小学校に入ってからも新学期に自分から隣の席の子に話し掛けることはほとんどなく、休み時間もリーダーシップを取っていた子に従うがまま、ドッチボールやらサッカーやらドロケイに参加した。中学校は小学校と9割方同じメンバーだったので助かった部分もあったように感じる。もし、中学生という難しい時期のスタートが、出身小学校が違う奴らに囲まれるというような環境であったなら、私の中学生時代はもっと過酷なものとなっていたかもしれない。

 …とここまで、自分の人見知りっぷりを支持するエピソードを並べて来たはずなのだが、ここまで書いて思い出したことがある。それは、クラスの委員や文化祭の劇の役などそれなりに人の前に出なければならないポジションを何度もさせられているということである。そして、それらのお役目を面倒だと思いながらも、100%拒否はしていなかった、いや、3割くらいは承認欲求を満たすことに寄与するものとして肯定していたと思う。生粋の人見知りであれば、交友関係は狭く深くなり、人前に立つのは…となるはずだが、どちらかというと自分の幼少期の関係性は広く浅くといった方が適切だったと思う。
断らず、敵を作らず、おだてられるとその気になるというキャラクターはこの頃既に確立されつつあった。

 思春期以降との一番の違いは「明るさ」である。そう、少年期の私はもっと明るかったのである。
もちろん、陽キャのそれに繋がるような根っからの照度はないにしろ、陽のあたる場所にいて、ウワァ眩しい…とはならなかった。やはり思春期から青年期というのはなんとも恐ろしい時期である。
 暗転のプロセスについては、とてもここには書ききれないので、またどこかで記すこととして、キャラクターの陰陽に関わらず、自分から積極的には話し掛けず、様子を見ながら少しずつ溶け込んでいくというスタイルは、プライベートでは維持され続けている。このスタイルを貫いても友人に恵まれたことは、幸運としか言いようがないのだが、消極的姿勢によって損失した出会いもおそらくたくさんあったに違いない。仮に、自分が初対面の人とも積極的に関わっていったとしたら、時には(自分がそういう絡みをしてくる人を初手では信用しないように)相手にされなかったり、嫌な顔をされたりするといったことも少なからず起こるのだろう。

 今の職場に(今は妻子があり真面目に父親をやっているが)若い頃よくナンパをしていたという同僚がいるのだが、その人曰く、ナンパをしても相手にされないことがほとんどで、露骨にウザがられることもあり、そういう時はやはりそれなりのショックは受けるのだという。しかし、ナンパは断られるのが前提なので、切り替えて次のアクションを起こす以外に選択肢はなく、要は、凹んでいるヒマがあったら次の人に声を掛けるということであった。このエネルギーというか、メンタリティには恐れ入った。こうしたパワーは、仕事でそういう役割を求められていたら、開き直って絞り出すことが出来るのだか、自然体の自分からはそういう力の源を見出すことが出来ないのが正直なところである。

人見知りの話からなぜかナンパの話になってしまったのだが、外向的な人にも、内向的な人にもそれぞれ良さがあるし、無理やり矯正するようなものでもないと思う。本日のタイトルの答え合わせをすると、結局、自分は人見知りなのではなく、コミュニケーションにおいてスロースターターなのであった。

 ところで、その人が自分の慣れ親しんだスタンスから一歩踏み出した時に、自分自身にも周りの環境にも面白い変化が起こるのは、なんとなく真実なのではないかと思っている。自分は「意外性」という言葉が結構好きである。もちろん、いつもと違う試みが空振りに終わることもある。しかし、そうした試みのために様々な作戦(といったら大袈裟であるが)を準備することは、自分にとっては結構楽しいのかもしれない。

 準備のためには、人への関心、物事への関心を持ち続けることが必要である。結局、こういうことを書くのは自戒のためなのだろう。

結局のところ、コミュニケーションが上手な人は須らく本当の意味での「共感」が上手である。

タブー視されていることも多いのが遺伝に関する分野であるが、目を背けず知ることも大事。

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