禍福は糾える縄の如し

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 読者の方々は、悪いことが重なった時にどのように気持ちを切り替えているだろうか。それこそ、そういうことのサポートも普段の仕事の内に含まれているので、そんなこたぁお前が答えるべきだろうと言われてしまったら、それはご尤もなのであるが、他人がどのように対処しているかというのは、実に興味深いところである。
 自分の場合は、月並みであるが、悪いことが重なったら、もうこれ以上悪いことは早々起こらないと思うようにして、良いことが重なった時には事故やうっかりに気を付けろよと自分に言い聞かせるようにしている。
 そういう意味では、よく諺が頭に思い浮かぶことは多い。「七転び八起き」「好事魔多し」「禍福は糾える縄の如し」とは上手いこと言ったものだなといつも感心してしまう。
 こんな考え方しているその背景にはどんな価値観があるのかを探ってみると、1日単位、1週間単位、1か月単位、1年単位、10年単位のようなまとまりの中で、良いことも悪いことも必ず両方起こるもので、それが波のように浮き沈みしているような、価値観というにはあまりに漠然としたイメージを持っているような気がする。
 例えば、2023年を1つの単位として捉えてみると、受験の機会を得られず取得を半ば諦めかけていた資格試験に合格できて、その報告の翌日に職場の上の人間が待遇改善の話を持ってきたという喜ばしくも「世の中は結果が全て」なリアリティ全振りイベントがあったかと思えば、好きなミュージシャンのコンサートツアーのチケット抽選に落ち続けて土壇場でチケットが当たるという出来事もあった。それらは比較対象として不適当だろうというご意見もあるだろうが、それは大目に見ていただけるとありがたい。

 さて、こういう価値観は凡人の生き方にはよくフィットすると思っていて、哀しいかな、自分が生きていく上でも大いに役立っているという実感がある。一方で、何か大きな事を成す人物というのは、それこそ人より大きなエネルギーや優れた才覚を持ち合わせていることが多いと思うのだが、たぶんそれだけではダメで、好機を捉えるというか、好機にリスクを引き受けられるような精神というか心のキャパのようなものを持っていることも条件にあるのではないだろうか。
 それは「器」とか「大物のメンタル」みたいに表現されるものかも知れないし、あるいは、多少「頭がおかしい」とか「バグってる」と表現できるかもしれない。いずれにせよ、少なくとも自分は、これまで生きてきて、「俺ってすごい!」と思った時間よりも、「本当に自分という奴は…」と思っている時間の方が長い。かと言って、過度に自分に対して悲観している訳でもなく、だから、今やっている仕事もそれなりに務まっているのかなとも思っている。

 ところで、これは雑記の面白いところであり、厄介なところでもあるのだが、この記事の仮題は「帳尻合わせの話」であった。ところが、こうして中盤の山場を迎えてみると、「香ばしい自分語りの話」になってしまっている。ケアやセラピーでは、人に話を聞いてもらうことが強調されがちであるが、書くことも気付きのきっかけや、気持ちの整理に繋がることは、業界においては常識である。これまで、約半年間、いつもぐだぐだと好き放題文章を書き連ねてきたが、頻繁に人と会って話せない分、書くことがその代替として機能しているように感じられる。

 ブログは自分の思考や感情の整理にも一役買っているなと思う。

 最後ちょこっと紹介を。今更紹介するまでもないかもしれないが、これはただの児童書ではない。ドストエフスキーやカントで挫折した人でもこれなら読めます。


モモ (岩波少年文庫)
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